アウシュビッツ

2010.7.27(火)

 「今から東方へ移り、新しい土地で仕事と生活を始めるのだ。」「カバンは一つ。重さは25kgまで。」というナチスの説明に、ユダヤ人たちは、お金や貴重品に絞って、荷物をまとめ、切符を買い、別れの手紙を書いて、列車に乗った。そして馬車用の貨車にすし詰めで、何日もかかってアウシュヴィッツに着いた。貨車から降りてほっとする間もなく、選別という作業で、外見によって強制労働をさせられる囚人と、老人や病人、女子供に分けられ、老人や女子供たちは「今からシャワーを浴びさせる。進め!」と言われて、シャワー室という標識のある建物に入り、「ハンガーの番号を覚えておけ。」と言われて脱衣し、シャワー室にまたすし詰めのように入れられた。そして、いきなり入口や裏口に立っていたドイツ兵が外に出てドアを閉め、天井の穴からチクロンーBという毒ガスを発生する薬が投げ込まれ、十分ほどで全員死んでいった。そして、ゾンビコマンドと呼ばれた囚人の中の作業員が莫大な数の死体を焼却炉で焼いた。囚人になった男たちも、死ぬまで働かされ、死ななくても、虐殺を隠蔽するため次々とガス室へ送られていった。囚人たちがパニックを起こさないように、カバンに名前をかかせ、偽の切符を買わせ、手紙を書かせるなどして安心させて収容所まで集め、400万人とも、最近の発表では、150万人とも言われる人を殺したのだ。そして、将来のためにとカバンに詰め込んできたお金や貴金属などは全て没収されて、ドイツ本国に送られ、軍資金となった。

 実は私にとって、こんな残虐なことが行われた悪夢の場所アウシュヴィッツを訪ねることなど思いもよらないことだった。しかし、今年4月から担当した国語の現代文の授業で、アウシュヴィッツに収容されながら、幸運にも脱出できて助かった人が、「助かったのは希望を失わなかったからだ。」と語ったという話の教材の授業で、私はアウシュヴィッツについて、掘り下げた話が出来ず、もっと勉強しなくてはいけないという思いを強くしていた。そんなとき家内が、「あんた中央ヨーロッパに行きたいと言ってたけど、アウシュヴィッツも入ったツアーがあるから行かない?」と持ちかけた。私の気持ちはすぐに決まった。負の遺産といえども、真実は見ておくべきだと。それで、この悪夢の場所へやってきたのだ。 


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