1)ボディーサーフィン
 学生時代、水泳部で一緒で、しかもエレキバンドのリーダーだった S が、水泳部の練習が一段落した夏の終わりに、海へ行こうと誘った。水泳部員は海で泳ぐことを禁じられていたが、誘惑に負けてついていった。そこで S が教えてくれたのが、ボディーサーフィンだった。砂浜近くまで高まってきた波が、勢い余って砕ける直前に、その波の斜面 に滑り込む。身体を真っ直ぐに板のようにして、伸ばした手のひらを船の舳先のように上に向け、勢いよく水面 に滑り出す。
 ところが、これがとても難しい。最大のポイントはタイミングだ。波がかぶさってくる直前の斜面 に、波と同じスピードで滑り込まなくては、その場に取り残されてしまう。


 S がまるで魚のように波に乗って浜辺の近くまで行くのに、私はいつも取り残されてその場で立ち上がるしかない。何度も何度も繰り返したがタイミングが合わない。S に笑われながらも必死で練習した。
 S は山口県の萩市出身で、幼少の頃、アメリカの若い兵士が駐留していて、菊が浜という有名な海水浴場で、その兵士達がこのボディーサーフィンをやっているのを見て、自分で覚えたという。それを彼は私に教えてくれたのだ。
 それから何日か海に通って、私もやっと波の斜面を身体で滑れるようになった。波が進むスピードと、その斜面 を滑るスピードが合わさるので、何とも言えないスピード感があり、しかも水の中なので、まるで魚になったような快感がある。
 それからというもの、波があると海に入らずにはいられなくなった。


山陰海岸にもいいうねりが来ることがある



2)サーフィンとの出会い
 ある日、何気なく見に行った映画で、魂を揺さぶられるような感動を受けた。サーフィンの映画だった。ハワイのとてつもない大きな波に命を懸けて挑むサーファー達の姿を見て、初めて本当のサーフィンのすごさを知った。
 あのサーフボードが欲しい。そう思って、できる限りの手を尽くして探し、ハワイから取り寄せるしかないとわかったときは、諦めざるをえないと思ったが、どうしても忘れることができなかった。それで手製のボードを造ることを思いつき、早速ボードになりそうな板を探し、削ってボードの形にして、ペンキを塗ってボードらしき物を造った。そしてオートバイの後に無理をして乗せ、海に走った。
 わくわくしながら海に浮かべ、映画で見た通りに腹這いで乗ったところ、ぶくぶくと沈んでしまった。それでがっかりして、本当に諦め、しばらくはサーフィンのことを忘れてしまっていた。


本格的なサーフィンのすごさに魅せられてしまった






3)山陰海岸で最初のサーファーとなる
 
社会人となって2・3年後のこと、新聞を読んでいて、その折り込み広告にふと目をやると、そこにサーフボードの写 真が載っていて、「国産初のボード」という宣伝を見たとき、「やった!」と思った。早速連絡を取って、とうとう夢にまで見た本物のサーフボードを手にいれた。すでに車は手に入れていたので、週末を待ちかねて白兎海岸へ急いだ。
 早速ボードに腹這いになり、パドリング(手で漕いで進むこと)で沖に出る。軽々と水面 を滑る。本物のボードの素晴らしさに我を忘れて波に挑戦した。

 しかし、現実は厳しく、映画で見たようにボードを乗りこなすことはできなかった。波の斜面 に入るタイミングが遅れて取り残される。やっと斜面に入ったと思うと、立ち上がる前に下まで滑り降りてしまって、後から来る波をかぶって海中に巻き込まれてしまう。やっと水面 に顔を出して一息つき、ボードを探すと、ボードは遙か砂浜まで勝手に滑っていってしまっている。泳いだり、歩いたりしてボードを取りに行き、再びパドリングで沖を目指す。すっかり疲れてしまっても、その日は1回もうまくボードの上に立つことができなかった。
 しかしその日、山陰海岸では初めての、サーファーが出現したのだ。


おっかなびっくりの腰つきで


4)我流サーファーの天下
 
それからというもの、週末はよほどのことがない限り、白兎海岸にたった一人浮かんでいた。1週間、「週末には波がありますように」と祈りながら働き、土曜日の午後車を飛ばす。海が見え始めると真っ先に波の具合を見る。白波が岸にうち寄せていれば万歳。穏やかに凪いでいるときの落胆は大きい。かなりの波が来ている日に、サーフボードごと海に飛び込み、冷たい水が身体を包むとき、本当に「生きている」と実感したものだ。


 そんな月日を重ねるうち、我流ながら、うまく波に乗れるようになった。観光バスも珍しがって、浜辺にバスを止めて、見学することもあった。大人気もなく得意の絶頂だった。
 ボードにまたがり、沖のほうからやってくるうねりを待つ。やがて彼方に青い海面 の高まりが見える。それから数十秒後、そのうねりは目の前で青い壁となってせりあがってくる。「今だ」とタイミングを合わせてボードに腹這いになり、一気にパドリングで波の斜面 に滑り込む。テイクオフだ。そしてすぐさま立ち上がる。スピードに負けないようにバランスを取ってボードを支配する。スピードが落ちれば前の方に体重をかける。スピードが出過ぎるとボードの先をやや横向きにターンさせて、波の斜面 をトラバースしながらコントロールする。ボードがしぶきをあげながら波の斜面を滑るスピードがたまらない。やがて波がかぶさって白波を巻き上げるあたりで停まって、再びボードにまたがり、沖へ向かう。

 たったこれだけのことで、実はそれが10秒程度の時間で終わってしまう。うまくいかなければ、立って2〜3秒で海中に倒れ込んでしまうのに、それでも「今度こそは」と挑戦を続ける。1日に数えるほどしか成功しないけれど、波の斜面 を突っ切って滑った快感はたまないからやめられない。そして日が沈む。





夏の浜辺は賑わいをみせるが波は来ない






波を待つばかりの日もある

 



テイクオフ




立ち上がる




バランスを取る

 



波の方向を読む



5)サーフィンとの別れ
 
冬はスキー競技の選手だった私にとって、サーフィンこそ楽しみながらできるシーズンオフのトレーニングにもってこいの遊びだった。それで数年間はサーフィンに熱中していた。ところがある夏のこと、いつもの浜辺に着いてみると、そこには数人のサーファーがいた。30歳を超えていた私から見ると、はるかに若い連中だった。その日からこの海のサーフポイントは私だけのものではなくなった。


 波の盛り上がりが崩れ始める場所をショルダーというが、そこがサーフィンにもってこいのポイントとなる。そのポイントから、まるで仕掛け花火のように崩れていく波の前を、その崩れにあわせて滑らせていくのがベストのやり方である。そのポイントの取り合いが暗黙のうちに始まった。いつもの通 り私はそのポイントに行く。すると彼らもやってくる。サーフィンは、真っ先にテイクオフした者に優先権がある。したがって、一番最初に崩れかける場所にいることが重要なのだ。だから誰もがそこを狙う。数人のグループでポイントを占領されると近寄れない。それで遅れをとることが多くなった。


 しかし、彼らから学ぶことも多かった。転倒したとき、ボードが離れていってしまわないようにボードを足に留めておくチューブをもらったり、思いっきりよく体重移動をしてボードをターンさせる技術などを教えてもらったりした。けれどもそれから1・2年後、ますますサーファーの数が増え、長髪で、茶色に髪を染めた若者や、サーフィンをしない派手な格好をした女の子が浜辺に我が物顔でたむろするようになって、だんだんと足が遠のいていった。


 今では山陰海岸でも、冬でもまるでカラスが海に浮かんでいるように黒いウエットスーツを着たサーファーが、荒波の中に浮かんでいる。今の私には別 世界の眺めだ。それでも時に海に行くと、波のある日は今でもボディーサーフィンを楽しむことはある。

 
夏でも小さな波で遊ぶことはできる



サーフィンのすごさはこちらで

ハワイはサーフィンのメッカだ

 

 


 

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