小松徹のマラソンの思い出



 私が初めて走ったのは、小学校1年生の時に父が危篤に陥り、連絡を受けて、小学校から4キロの道のりを走り続けて帰ったときだ。何か大変なことになるという不安が、走る苦しさを消していた。結局父は亡くなったが、そのとき私に走ることへの自信がついた。
 
 中学1年の秋の校内マラソンで、全校250名中8位という好成績をあげたので、顧問の勧めで野球部から陸上競技部へ変わった。しかし、2年になって後輩に優秀な選手が入り、常に2番手に甘んじる結果 となったが、それでも卒業まで長距離と駅伝を走った。


 高校時代は夜走った。暗くても舗装道路なら走れる。遅くなるので、寮の風呂は使えず、夏は汗まみれの体を近くの川で泳いで冷やした。もちろん夜である。川面 で崩れる月影を壊して下手なクロールで泳いだりもした。

 高校の運動会ではマラソンがあって、その優勝をめざして一人で練習し、毎回優勝した。私が夜走って練習していることを知っている者はほとんどいなかった。だから級友たちは私に才能があると思って驚いていた。誰よりも練習をしていただけだった。



 大学ではスキー部に主眼をおいた。そして暇な夏場のトレーニングになると思い、水泳部にも入った。毎日水泳部の練習をしたが、それ以外に朝、一人でマラソンの練習をした。5kmの往復コースを毎朝欠かさず走った。それで大学の学内マラソンでも上位 を続けた。
 
 秋の日本海駅伝では補強選手として誘われ、比較的長い区間を走らされた。しかし、あまり貢献はできなかった。本当に早い選手がいると思い知らされるばかりだった。本格的なマラソンランナーになりきれない中途半端な姿は、それからも長く続くことになる。

 社会人となってからは、スキー競技のためのトレーニングとして、毎朝5km程度のジョギングを続けた。しかし、マラソン競技の誘惑からは逃れられずに、近隣で行われるマラソンには積極的に参加した。吉備路マラソン・蒜山マラソン・鏡野マラソン・小豆島タートルフルマラソンなどに何回ずつか出場した。そしてトライアスロンにも挑戦したのである。


 


 50歳代後半にさしかかった現在、マラソン競技には出場しなくなった。しかし、走ることはやめられないので、往復4kmほどをジョギング通 勤している。屁理屈を言えば、10日通勤すれば40kmも走ることになるから、マラソンを走っていることになる。この程度のランニングはこれから先も続く限り続けようと思っている。

 それよりも今精進しているのはウエイト・トレーニングだ。それによって少し筋肉がついた分、長距離を走るのがきつくなったこともある。従ってマラソン競技は、今では遠い世界になりつつあるが、このごろはテレビでマラソン競技を見るのが大の楽しみである。

 


トップページへ

INDEXpageへ