トライアスロンの思い出

 ある日のこと、学校の正面玄関に一台の軽四トラックが止まっていて、その荷台に中古の競技用自転車が載っていた。K先生がどこかに処分しようと積んでこられていたのだ。そこでその自転車をもらい受けることにした。心が躍った。なぜかというと、競技用の自転車がのどから手が出るほど欲しかったからだ。数年前からトライアスロン競技が皆生で始まっていて、強い興味があったけれど、水泳とマラソンには自信があったものの、自転車がなかったのであきらめていたからだ。

 これで自転車の練習さえすれば、皆生トライアスロンに出場できると思って、チューブラというタイヤの取替えや整備をして、自己流で練習を始めた。比較的空いている早朝の町中を周回したり、時間があれば郊外に走り、時には岡山まで漕ぐこともあった。水泳もマラソンもできるだけ練習した。そして何とか手応えを感じるようになったので、その年の皆生大会にエントリーした。ところが出場を認められなかった。実績がないからと言うのが理由だった。がっかりしたのは言うまでもない。

 ところがこの年に岡山県ではじめての大会が牛窓で行われることとなり、実績を作るチャンスだと参加した。岡山の有志による手作りの大会だったので、参加者も30名程度だっただろうか。大会前日の前夜祭もミーティングも欠席して、当日の朝早く津山を出てスタート地点の西脇海水浴場へ着いた。やがて我こそはといった面 々がやってきて、自転車を並べ始めた。そこで私は早くも意欲喪失の状態になった。どれもこれもみなピカピカの新車ばかりだ。K先生には悪いけれどもらった私の自転車はあまりにも見劣りがする。

 やっぱり自分の出る幕ではない。そう思って一緒に来ていた家内と次男に、「おれ やっぱり止めとくよ。」と弱音を吐いた。すると息子に、「お父さんせっかくここまで来たのにやめんなよ。」と言われて、しぶしぶ準備をした。しかし、恥ずかしながら自転車はトランジットエリア(水泳から自転車への乗り換え場所)に置かずに、海水浴の休憩小屋の後ろに隠しておいた。

 やがて緊張が高まり、スタートの砂浜に並んだ。はじめてのレースに不安がよぎった。
合図とともに一斉に海に飛び込む。無我夢中でしばらくはがむしゃらに泳いだ。ふと正面 に顔を上げると、泳いでいる姿は誰も見えない。びっくりして、コースを間違えたのかと思って後方を見ると、みんなが後に続いていた。トップを泳いでいたのだ。胸が高鳴った。よしこのままがんばろう。結局2位 で水泳を終えた。そこで後悔したのは自転車を隠していたことだ。その自転車を取りに行っている間に次々と水泳を終わった選手たちが先に飛び出していった。

 自転車コースは岬の曲がりくねった道路を過ぎると牛窓の町に下り平坦になる。直線道路は得意なので全力で飛ばして次々と追い抜き、とうとうトップに出た。しかしここでもつまずいた。前日のコースの下見をしていなかったので、分かれ道になって、コースが分からなくなってしまったのだ。仕方なしに後から来る選手を待ってその後をついていった。そしてまた追い抜いたのにまた分かれ道で待った。しかしそんなことがあっても自転車もトップでゴールした。

 最後のランは海岸線に沿った町の中を3往復するコースだった。2位を来る選手をかなり離していることが、1往復目のすれ違いで分かった。これなら抜かれることはない、と思える距離だった。しかし2往復目にかなり差が詰まり、3往復目にはさらに詰められてはいたが、とうとう逃げ切って優勝した。その時も私がゴールに入るとき決勝テープが張ってなかった。スタッフが無名の私のゴールを信じないで、本命視されていた2位 の選手のゴールに合わせて決勝テープを張ったのだ。これには息子が黙っていなかった。「お父さんが先にゴールしたよ。」とスタッフに詰め寄り、スタッフも人員不足であわただしくしていて気がつかなかったと詫びた。いろいろあったが、とにかく岡山県で最初の大会の優勝者となったのである。

 2年目の夏が来て、皆生大会のエントリー用紙の実績欄に岡山県内大会優勝と記入し、出場が認められた。本格的なしかも日本ではじめて行われた伝統の皆生大会に出場できることがうれしくて、練習に励んだ。そしていよいよ大会前日、一人で皆生に入り、自転車の整備とコースの確認をした。そしてミーティングも厳粛に行われ、全日本トライアスロン皆生大会の権威を感じさせられた。

 いよいよ皆生大会がスタートした。まず岩の自然堤防の間の砂浜からスイムが始まった。スタート直後はまるでレスリングのように頭や肩を引っ掻きながら揉まれていく。やっと水の中を泳いでいるという感じになるまでに疲れ果 てている。そして3kmの水泳は長い。ずいぶん先を行く人たちも多くいるが、それでもあわてずに泳ぎながら、しみじみと競技者となれたことの幸せを感じて泳いだ。

 スイムが終わり、バイクに入る。大山の麓の農道や県道を走る130kmのコースだ。登りが多いのに閉口する。その分下りもあって少し休めるのだが、下りの後半には漕ぎはじめて、惰性をつけないと、次の登り坂を登り切れないので、休む暇はないと言っていい。足も腰も痛くて我慢できなくなる。それにいかに耐えるかが勝負だ。やっと自転車を放り投げるように置いて、ランに変わる。

 疲れ切ってからのランはマラソンとはほど遠い走りだ。 ペタペタ、ヨチヨチの感じで、それでも境港までの往復42kmあまりのコースの、行きは何とか走れたものの、折り返してから走るのがきつくなった。2kmごとにあるエイドステーション(飲食・休憩所)で立ち止まって水をかぶる。初めのうちはバナナが食べられた。やがてスポーツドリンクしか飲めなくなり、ついに水しか受け付けなくなった。そして飲むより頭からかぶることの欲求の方が強くなる。

 もうやめよう。ここで横になりたい。でも皆生まで帰らないと。もう一つ次のテントまでいこう。そこでやめよう。そう言い聞かせてゆっくりと走り始める。そしてこんな自分との戦いを数回繰り返して、残りが3kmほどになったとき唯一渡らなければならない陸橋がきた。往路では走って登ったその陸橋が歩いてさえ登れない。とうとう這って登った。それでも沿道の応援の群衆から、次の通 りを曲がったらゴールが見える、と聞いたら急に元気が出て、とうとうゴールにたどり着くことができた。

 トライアスロンの魅力はこのゴールの瞬間にある。長い時間苦しみに耐えて耐えて、その苦しみが大きかったほど解放された喜びは大きい。やった。終わった。これがすべてだ。そして後は、みんなでお互いの完走をたたえ合いながら最後のアスリートがゴールインするまで待つのだ。しかし現実には私は疲れ過ぎていた。はじめての公式戦で、完走だけを目指して張り切りすぎたのだ。そこで当日応援に来てくれていた家内に運転を頼んで、早々に帰途についた。何としてもゆっくり休みたかったから。

 その夜、早々と眠りについていた私に電話が入った。どうして帰ったのか。40歳代で2位 に入賞していて、明日表彰式があるのに。と言う意味の仲間からの電話だった。再び出かける元気はない。迷惑をかけるがもらえる物があったら代わりにもらってきてくれ、と頼んで眠り込んでしまった。年齢別 の入賞のことなど頭にはなく、ただ完走したいという切なる望みしか持っていなかった最初の皆生大会だった。

 そこで次の年の皆生大会には、前もって表彰式まで残る日程を組み、宿も取って参加した。しかし結果 は40歳代9位という結果に終わった。表彰を受ける選手に拍手を送りながら、凡人にはチャンスは二度とはないのだと教えられた気がした。やはり二度目のレースとなると、陸橋を這って登るようにはなりたくないと、追い込みにブレーキをかけてしまった嫌いがある。自分の根性のなさを悔やんだ。

 そして次の年は完走し、4回目となる大会で、自転車を終えたところで棄権してしまった。それがトライアスロンとの別 れでもあった。過労から体調を崩していて、これ以上無理をすると取り返しがつかなくなるという医者の言葉が、そのとき大きくのしかかってきたからだ。もうこれで十分だと自分で自分を慰めながら皆生を退散した。しかし、あの果 てしない距離に挑戦することのできた幸せは心の中に今も残り続けている。

 


 

   トップページへ  

INDEXpageへ